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研修旅行で旧北陸線トンネル群を巡ってきました!(2018.12.09

旧北陸線パンフレット


 当会では年に1回、会員の研修旅行を行っています。でも、よくある親睦のための旅行とはひと味違うんです。鉄道遺産や 近代化遺産などを巡る中身の濃い旅なのが特色です。

 今回も、敦賀のレンガ倉庫等や「旧北陸線トンネル群」を巡る日帰りバスツアーになりました。それも、ご縁のある現地の団体に ボランティアガイドをお願いしてのツアーです。

 そのガイドさんお二人の博識と郷土愛あふれる説明のおかげで、明治の人々の鉄道に寄せる熱い思いと難工事だった 鉄道建設の労苦に触れることのできた一日となりました。(2018.12.9)

●画像は拡大表示・連続表示できます。クリック(タップ)してご覧ください。


旧北陸線トンネル群とは

旧北陸線の長浜~敦賀間(※)は明治15(1882)年に、敦賀~福井間は明治29(1896)年に開通した(※柳ヶ瀬トンネルは難工事で遅れて開通)。 昭和37(1962)年、現北陸線開通にともない旧線は廃線となった。「旧北陸線トンネル群」は、敦賀市から南越前町にかけて築かれた13の 鉄道トンネル群を言う。廃線後に道路トンネルに転用され、現在も11のトンネルが残る。平成28年、国登録有形文化財に登録。

南越前町今庄観光サイトを見る
敦賀観光案内サイト「漫遊敦賀」の旧北陸線トンネル群のページを見る



▲午前7時、春日井駅出発。雪の舞う北陸道を木之本ICで降り、中之郷駅跡に着いた。現地ガイドのお二人と合流し、SLバスと マイクロバスに分乗。まず小刀根(ことね)トンネル。旧柳ヶ瀬トンネルは自動車用の信号機が。上には北陸自動車道の柳ヶ瀬トンネルが 見える。これぞ新旧の妙。


▲敦賀に着いて最初の鉄道遺産は旧敦賀港(つるがみなと)駅(開通当初は金ケ崎駅)のランプ小屋だ。電灯が発明されるまで列車の明かりは灯油ランプだった。 ランプの整備保管は大事な仕事で、ランプ小屋が主要駅に作られた。ランプには赤と緑の2色あり、組み合せにより列車の種別を表していたという。


▲観光客で賑わう敦賀港赤レンガ倉庫。1905年にアメリカの石油会社の石油貯蔵用として建築。赤レンガの外壁が雰囲気を醸している。 見ものは日本最大級というジオラマの展示。当時の敦賀の街と港がじつに精緻に作られ、SLが走る。ここで早めの昼食(海鮮丼)。


▲旧敦賀港駅を再現して作られた鉄道資料館。1882年に金ケ崎駅として開業。 1912年からは東京発着の欧亜国際連絡列車の乗り継ぎ駅として、ウラジオストク航路 とシベリア鉄道でヨーロッパとつながっていたという。敦賀は世界に向けて開かれた国際都市だったのだ。


▲いよいよ敦賀~今庄間のトンネル群を巡る。明治29(1896)年開通の旧北陸線敦賀~今庄間には12のトンネルが築かれ、現在10のトンネルが残る。 ひとつ目の樫曲(かしまがり)トンネル。トンネルは、路面は舗装され照明もついて、今も県道としてクルマが走る。


▲我々が乗ったSLバス。遊び心満載。景色の良さで有名だったという杉津(すいず)駅は北陸道の杉津PAになっていた。 往時を知る人は時代の流れにため息をつくだろう。8番目の芦谷隧道の出口で勢揃いして記念撮影(現地ガイドさん撮影)。

▲3つのトンネルが見通せる珍しいところを通り、トンネル群で一番長い山中トンネル(長さ1170m)を抜けると山中信号所跡だった。 すれ違いのためのスイッチバックがあり、待避線の地形が残っていた。旧北陸線は千分の25という急勾配で難所だったと聞く。SLの 機関士等が窒息死した悲惨な事故もあったという。


▲今庄宿に着いた。往時は北国街道の宿場として旅人で賑わったという。我々は造り酒屋で試飲したり梅肉屋さんや油揚げ屋さんで買い物 などして宿場町を散策。古い旅籠の若狭屋さんで今庄蕎麦を食した。最後は観光ボランティアの方や役場の観光担当の方と交流会を持ち、 帰途についた。充実した1日だった。


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