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旧国鉄中央線 愛岐トンネル群!
~廃線とトンネル群保存再生プロジェクト~


  愛岐トンネルとSLのロゴ

愛岐トンネル群とは?

開通と廃線までの歴史、そして私たちの活動の進展

5号トンネルに入るSL  1900(明治33)年、国鉄中央(西)線は名古屋~多治見間が開通しました。明治の国策である「殖産興業」が急務だった時代から 戦後の高度成長期まで、経済発展の大動脈として中部地方の発展と近代化に多大な貢献をしました。

 その鉄路も、単線だったため戦後の高速・大量輸送時代に対応できなくなり、複線電化と長大トンネルによる新線が建設されて、高蔵寺~ 多治見間の軌道敷と13基のトンネル群は1966(昭和41)年に廃線となりました。そして、レールも枕木も撤去され、いつしか廃線路は 茂った藪の中に埋もれ、人々の記憶から忘れ去られてしまいました。※画像は5号トンネルに入るSL。現在のマルシェのところ。

勝川駅レンガ

トンネル群発見のきっかけ

 2005(平成17)年、JR中央線勝川駅の高架化改修工事が行われることになり、残っていた明治の赤レンガ製プラットホームが撤去されることになりました。 (画像は勝川駅のプラットホームだったレンガのブロック。今は愛岐トンネル群の入り口ゲートに展示されている)

 そこで、ホームの土台となっていた明治の赤レンガを町おこしに再活用しようとイベントが開催されたのですが、地元の古老が定光寺駅付近に 赤レンガのトンネルがあったことを思い出しました。その話がきっかけとなって、探索が始まりました。トンネル群にたどりつくまで数か月を要したのですが、 40年間藪の中に眠っていたトンネルを目にした時の胸の震えるような感動は、今でも古参会員の間で語り草になっています。


保存再生活動 2007年より始まる

開拓当時の写真

 2007(平成19)年、当時の地権者のご理解を得て、市民有志により調査が開始され、ほどなく当委員会の前身の市民グループが結成されて活動が始まりました。 ヤブ漕ぎから始まった作業でしたが、安全に歩けるようになるまで、たくさんの汗と時間と情熱とが費やされました。2009年8月にはNPO愛岐トンネル群保存再生 委員会が設立され、活動が本格化しました。

 トンネル群の価値はすぐに多方面で認められ、経済産業省「近代化産業遺産」認定など、注目を浴びることとなりました。メディアに取り上げらることも度々 で、春と秋の特別公開には多くの客様に愛岐トンネル群を訪れていただけるようになりました。2014年にはナショナルトラストにより敷地を取得。そして 2016年には登録有形文化財に3施設が登録されるに至りました。愛岐トンネル群の歴史的、文化的価値が認められたとともに、会員の努力も実りつつ あると言えるのかもしれません。
※画像は2007年8月、3号トンネル多治見口の落石防護柵あたりの整備風景。


ナショナルトラストが2014年6月に成立

 3~6号トンネルまでの廃線路と復活した豊かな自然を、持続的で賢い再利用(ワイズリユース)をしつつ次世代に引き継ぐためにはこのエリアの土地 取得が必要と考え、皆様のご協力のもと、2009年5月からナショナルトラスト運動を進めてまいりました。
 2014年6月、11,000名を超える方からのご支援・ご浄財によりナショナルトラストが成立し、愛知県側敷地16万平方メートルを取得することができました。 ご協力いただきました多くの皆様、関係者の方々に心からお礼を申し上げます。 詳しくはナショナルトラストのページをご覧ください。


玉野古道の再発見と整備

玉野古道高札 玉野古道公印   当委員会ではトンネルと廃線敷きの保存整備の現場作業だけでなく、様々な観点からの調査・研究活動も進めてきました。玉野街道の 再発見もその成果の一つです。中央線開通直前の明治20年代に建設された玉野街道の痕跡が廃線路に並行して部分的に残っている ことが分かってきました。

 多治見は陶磁器の集散地として栄えてきましたが、四方を山に囲まれた盆地のため、名古屋への平坦な道が熱望されていました。 古くから内津峠を通る下(した)街道があったものの、峠越えで、急坂のため人馬ともに難渋する道でした。

 明治24年、多治見町民有志が出資し、多治見から名古屋へ向かう玉野街道の開削が始まりました。願いかなって川沿いの平坦な玉野街道 (名古屋新道とも)が1895(明治28) 年に開通しました。人馬の他、荷車なども通行可能で、有料道路でした。しかし、道路開通の翌1896(明治29)年に、 中央線の敷設工事が始まると街道は所々で寸断されてしまい、明治33年の中央線開通とともに、玉野街道は使われなくなりました。開通当時、 出資金を補填するため「道銭」を徴収していましたが、近年、この高札(料金表)と事務所の公印が発見され、1年余りの短命という運命をたどった 「幻の古道」の存在が明らかになったのです。

 玉野街道のことを私たちは敬愛の気持ちをこめて玉野古道と呼ぶことにしました。(以下玉野古道と呼称) そして玉野古道の再生も活動の柱のひとつとして、大切に考えています。今では残る玉野古道をたどるコースを皆さまに提供し、昔を偲んでいただいています。
画像左:玉野古道の通行料を告知する高札と、開通当時の公印。


愛岐トンネル群の公開レイアウト

距離:片道1.7kmの往復路
所要時間:約2時間(休憩等含まず)
トイレ:3か所にトイレを設置(入り口階段下、レンガ広場、6号多治見口)。定光寺駅にもトイレあり。
売店:マルシェ広場に弁当類、飲み物などの売店あり。
当会のブースもあって、絵葉書、汽車土瓶、缶バッジなど販売。

新パンフレット表紙側 新パンフレット中開き
 ▲公開時に入場者にお渡しする「散策マップ」です。三つ折りになっていて、左の画像が表ページ、右が中開きページです。〔画像クリックで拡大表示〕


三位一体の魅力=トンネル群、歴史遺産「玉野古道」、愛岐渓谷

1. 近代化産業遺産「愛岐トンネル群」

 「三位一体の魅力」のトップバッターは、やはり赤レンガのトンネル群と廃線敷きです。
 トンネルをくぐり鉄道で運んだのは”もの”だけではありませんでした。物を運び、人を運び、夢も涙ものせて運びました。 人がトンネルを特別な存在と感じるのは、トンネルの漆黒を抜けたその向こうに時空を超えた何かがある、と思わせるからかもしれません。
 特に、愛岐トンネル群の120年を超える視線で赤レンガのトンネルを眺めると、トラックも建設重機もない時代にこうしたものを 造り上げた明治の人々の気概と苦労がしのばれます。トンネルのレンガに手をふれると、明治の人々の心意気が伝わってくるようです。

 この愛岐トンネル群の3~6号のトンネル4基は、2009年に経済産業省「近代化産業遺産33」に認定されました。 2012年には文化庁の「NPO等による文化財建造物の管理活用事業」に選ばれ、文化庁から活用活動を受託しました。 また2016年7月には3基の施設が登録有形文化財(建造物)(※)として登録されることが決まり、16年11月に正式登録されました。 「貴重で素晴らしい歴史遺産」だと、公けに評価されたことになります。
こちらのページにまとめてみました。


2. 歴史遺産「玉野古道」

玉野古道  私たちは玉野古道も貴重な歴史遺産であると考え、整備を進めてきました。今では、年2回の特別公開時に大勢のお客様に玉野古道の 散策を楽しんでいただくことが出来るようになりました。

 委員会ではさらに玉野古道の調査を進め、近い将来、玉野古道とトンネル(7号と8号)を併用し、古虎渓駅まで散策を楽しめる 「フットパス」を作り上げたいと考えています。それは他の観光地には類を見ないネイチャーロードになるはずです。 明治の人々の心に思いを馳せながら古道を歩くと、周りの景色も違って見えるかもしれません。
※画像は玉野古道の風景。愛岐渓谷も眺められる。


3. 愛岐渓谷(玉野渓谷)

 愛岐渓谷(玉野渓谷)は愛知高原国定公園の西端に位置し、濃尾平野と東濃を隔てる山岳地帯への入口にあります。豊かな里山の自然を 残す庄内川のV字渓谷は、大都市近郊と思えない雄大な景観を楽しませてくれます。特に昭和初期から戦後しばらくの間は「名古屋の奥座敷」 として多くの観光客が訪れ、駅の下には食堂や旅館、土産物屋などがあってにぎわいました。

 名古屋近辺に住む高齢者の方は、幼少の頃、小学校などの遠足で定光寺を訪れた方が多いようです。もちろん、観光バスのない時代のこと。 中央線のSLに乗って定光寺駅で降り、河原で遊んでお弁当を食べ、定光寺にお参りしました。愛岐トンネルに来て、懐かしいとおっしゃる高齢の 方が多いのはそんな理由があるのです。

 時は移り、駅は無人となり、駅前銀座?は寂れ、大型ホテルは廃墟となりました。しかし、時代の移り変わりを眺めてきた玉野渓谷は、 今も変わらずそこに流れています。

※庄内川は、上流の岐阜県では土岐川と呼ばれています。春日井市玉野町や定光寺駅付近は玉野川と呼ばれることが多いようです。



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