10/26、研修旅行で琵琶湖疏水に行ってきました。2024.10.26
当会の「研修旅行」は、物見遊山の社員旅行などとは違って、近代化遺産や鉄道遺産を訪ねるなど、過去毎回、コアな
旅先なのが自慢?です。
今回は「琵琶湖疏水」です。 琵琶湖疏水と言えば近代化遺産・日本遺産であることは勿論ですが、70年ぶりに再開されたという疏水船
(つまり舟下り)も魅力なのです。
ところが肝心の疏水船の運行がほぼ春と秋に限られ、おまけに大人気で予約殺到。やっと会の予約担当の努力が実り、今回実現した、と言う次第です。
琵琶湖疏水とは
琵琶湖湖水船コース図です。私たちは右端の大津乗下船場※(STARTの青旗)から左端の蹴上乗下船場(GOALの赤旗)まで船旅を満喫しました。 図は疏水公式サイトよりお借りしました。※本図では「大津乗下船場」とありますが、「三井寺乗下船場」の名が通称として使われているかと思われます。〔画像クリックで拡大表示〕
こちらは疏水の断面図です。三井寺乗下船場からから蹴上乗下船場まで約8km。その間の高度差は、わずか4mです。その先のインクラインの 落差が36m。明治時代の測量技術は侮れません。図は疏水公式サイトよりお借りしました。〔画像クリックで拡大表示〕
「琵琶湖の水を京都へ」は京都の人々の積年の夢だった
京都は日本の都として長年栄えてきましたが、明治維新後、東京遷都により人が減り、かなり衰退してしまいました。 何とか京都を盛り返さなければ、と考えた京都の人々は、琵琶湖から京都へ水路を作り水を引くという、今まで夢で終わっていた一大 事業を実現すべく立ち上がりました。琵琶湖の水を発電、農業用水、舟運、飲み水などとして使うことで京都の町を 復興させよう、という願いが込められた事業でした。
明治23(1890)年に琵琶湖疏水が完成
琵琶湖疏水は明治18(1885)年に着工し、難工事の末、5年後の明治23(1890)年に完成しました。水力発電を採用したおかげで
新しい工場が生まれ、路面電車も走り、京都は活力を取り戻しました。(その後、水量の不足を補い、また衛生的な飲用水を確保する
目的で、第2疏水が明治45(1912)年に完成しました)。
琵琶湖疏水は過去の遺産ではありません。百年先を見据えた明治の先人の夢が形を結び、現代でも無くてならないものとして生きているのです。
▶琵琶湖疏水の公式サイトを見る
2018年に、70年ぶりに琵琶湖疏水船が復活!
琵琶湖疏水観光の目玉として、2018年に疏水船、つまり舟下りが登場しました。約70年ぶりに観光船としての復活です。
舟下りと書きましたが、実は舟上りもあります(笑)。三井寺(みいでら)乗下船場から蹴上(けあげ)乗下船場までの下りコースと、
その逆の上りコースとがあります。(今年春から大津港発着便も設定されたとのこと)。
なお、疏水船は大雑把に言えば春と秋の運行のみで、夏期、および冬期は運行されません。
▶琵琶湖疏水船の公式サイトを見る
私たちは三井寺から蹴上までの舟下りを楽しみました。正味の乗船時間はざっと1時間でしたが、乗船前に事前のレクチャーがあり、
また蹴上の下船後にも説明があって、その時間が40分ほどみる必要があります。(公式サイトでは下り便はトータルで1時間40分とされている)。
私たちの研修旅行の写真をご笑覧ください。写真いっぱいで、行ったことなくても行った気になれるかも!?
写真は連続拡大表示できます。どうぞお楽しみください。
疏水船の舟下りを楽しむ
- 6時40分ごろ春日井駅北を出発。高速道路で途中渋滞があって気を揉んだものの、9時少し前に大津の疏水船乗船場に到着。
- 工場の通用門のようなところから入門。正面の四角い建物が待合室?。ここで事前レクチャーを受ける。 1艘の船には12人しか乗船できないので、グループ分けをされる。
- 船のガイドをするガイドさんが事前レクチャーもしてくれる。このガイドさん、話がとても上手。
- 待合室の液晶テレビで動画を見る。画像の二人は、当時の京都市長(右)と、工事責任者の田辺朔郎。 田辺朔郎は学校を卒業したばかりの21歳と言う若さで工事責任者に抜擢されたという。右の市長さんがしゃべるのが面白い。
- 歩いて乗船場へ。疏水船は12人乗りの船で、お客12人と先ほどのガイドさん、それに船長さんが乗る。すぐ前方に第1トンネルの洞門が見える。こんな「運河」を人力で開いたのだ。明治の人々の苦労が偲ばれる。
- 第1トンネルの洞門。どっしりとして、まるでギリシャ建築を思わせる。左右の頑丈そうな鉄の扉は、万一の時に 水の流入を遮断するための扉だという。
- すぐに第1トンネルに入った。疏水船は滑るように静かに進む。ガイドさんが要所要所で説明してくれる。第1トンネルは2436mと、 とても長い。 直線のため出口が最初から小さく見えているが、なかなか近づかない。
- 振り向いて、出たばかりのトンネルの西口を見る。各トンネルの洞門には立派な扁額が掲げられている。
- 前方を見る。疏水船は静かに進む。土手の上は桜並木。春には満開の桜が見られるという。満開の桜並木を見に訪れたいものだ。
- 次のトンネルに入った。壁は今はモルタルで塗り固められているが、造られた当時は赤レンガだった? ちなみに疏水にはトンネルは4基ある。(第1~第3トンネルの3基と諸羽トンネルで計4基。)
- ガイドさんが船首で説明してくれる。時々土手を歩く人が手を振ってくれ、我々も手を振り返す。
- 通り抜けたばかりのトンネルを振り返ってみる。そのデザインが素晴らしい。何と荘重で美しいことか。 扁額も明治の著名人の揮毫によるもので、大変重々しくも立派。
- 右側の壁に見える2本の物のうち、下はロープだ。(上は電線か?) 昔、この疏水で舟運が盛んだったころ、 蹴上行きの下りの船は流れに任せて下れば良かったが、上りの船(大津に向かって流れをさかのぼる)は、トンネル内では船頭さんが このロープを引っ張ってさかのぼる必要があった。トンネルの外 (屋外) のところは、堤防から人がロープで引っ張ったという。
- 8キロ余りの舟下りを楽しんで、蹴上 (けあげ) 乗下船場に到着。前方には水路は無くなり、インクラインの上部末端部分が見える。 疏水の流れは右側のトンネル?に吸い込まれていく。我々は、ここで下船。
- 乗下船場で船を降りると、目の前には石とレンガで作られた荘重な建物がある。旧御所水道ポンプ室という建物で、 金に糸目をつけずに建てた感じがする。建物現在は使われておらず、耐震性の問題もあって中には入れないという。
- 乗ってきた船はここでUターンする。船長さんがじつに器用に操舵し、向きを変える。
知らない人は知らない言葉、ねじりまんぽとは?
- ここは珍しい「ねじりまんぽ」のトンネル。まんぽとは古い日本語でトンネルを意味するらしい。このまんぽの上にはインクラインが 斜めに交差しているために「ねじり」が生じ、こうした特殊なレンガの積み方を採用する必要が生じたという。
- ねじりまんぽについて詳しく解説してある。なるほど。
- ねじりまんぽ内部のレンガの積み方。何ともまあ、大変手間のかかったのではないだろう。
インクラインと琵琶湖疏水記念館
- 蹴上インクラインの上部の様子。乗下船場のすぐ目の前にあって、船の運搬台車と昔の船とが展示されている。 昔の舟便は、例えば下りの荷を積んだ船は、この先は船の通れる水路がなくなるので、インクラインの運搬台車に載せられて、 南禅寺船溜まりまで降りることになる。高低差36m。
- インクラインを歩いて下る。複線で、レール幅が広い。3メートル位あるだろうか。誰かが「超広軌だね」と言った。
- インクラインの坂を下ると、舟運の船を積んだ運搬台車が展示してあった。疏水の水力発電で発電した電気で ワイヤドラムの直流モーターを回し、この運搬台車をワイヤロープで(たぶん左右2台同時に交互に)ゆっくりと昇降させたのだ。
- 琵琶湖疏水記念館の展示品のひとつ。発電した電気でこの装置のモーターを回し、ワイヤロープを引っ張る ことで船の運搬台車を昇降させた。
- 明治40年ごろの蹴上インクラインの風景。インクラインのレール上を運搬台車が船を 積んで運んでいる。画像出展:WikiPedia
- 琵琶湖疏水記念館に面した池。正面にインクラインが見える。噴水はもちろん琵琶湖疏水の水。上部の蹴上との高低差は36メートルある。
- 「この人がいたからこそ、琵琶湖疏水が出来たのだ」と言えそうな貢献者が、この田辺朔郎であろう。 若くしてこれほどの大工事の責任者になったのだから、すごいとしか言いようがない。
お寺の境内に突然、レンガ造りのアーチ橋が! 南禅寺水路閣
- 南禅寺水路閣。ねじりまんぽから南禅寺の境内を奥まで行くと、この水路閣がある。疏水の水を流すための水路橋である。 ローマの水路橋を思わせる、何とも存在感のある美しいデザインだ。南禅寺の奥まったところに忽然と現れるのが面白い。 アーチの上は幅およそ1.5メートルほどの水路になっていて、勢いよく水が流れていた。
- 水路閣の説明パネル。