3号トンネルに移転された殉職者慰霊碑。ビアホール開催中の為、テーブルがセットされている。(8月9日撮影)
あなたが愛岐トンネル群の春秋の公開時に、あるいは「森のビアホール」 に来場されると、入ってすぐの3号トンネル入り口にたたずんで
いる石碑に気がつかれることでしょう。これが今回2025年夏の移転によりお目見えすることになった「中央線建設工事殉職者慰霊碑」(以下 慰霊碑)です。
どんな由来の碑なのでしょうか。以下、詳しくお伝えします。
この慰霊碑は「中央線建設工事殉職者慰霊碑」と言い、明治の昔、愛岐トンネル群の工事中に落石・落盤事故などで 亡くなられた20数名の方の霊を悼んで、地元の有志によって明治33 (1900) 年6月に建立されたものです。
当時は地元春日井市玉野町の太平寺というお寺さんの土地に建てられ、以来百年間ずっとお祀りされてきたものの、事情により百年を経た平成12(2000)年に
千歳楼近くの東海自然歩道入口に移転されました。
それが諸般の事情で、25年経って再び移転することになり、大変な工事でしたが、このたび、移転工事が終了し、
8/5に神式にて厳かに完成式が執り行われた次第です。
慰霊碑自身も「やれやれ、2度も引っ越しさせられたが、やっとトンネルに近い安住の地に来ることが出来た。ここなら 鉄道を愛する 多くの人に見てもらえるわい」と悦んでくれているかもしれません。
この慰霊碑は、旧中央線高蔵寺多治見間の鉄道建設工事で殉職された二十数名の方の慰霊碑です。
自然石風のものが慰霊碑本体で、右側の黒い石碑は由来を記すためのもの(便宜上、説明板と表記)です。この説明板は、平成12(2000)年の東海自然歩道入口への
移転に際して新たに追加されました 。
この説明板には慰霊碑の由来が分かりやすい現代文で書かれていますので、まずこれからご覧いただきましょう。
画像では読みにくいかもしれませんので、説明文を文字起こししてみました。
中央線建設工事殉職者慰霊碑
この碑はJR中央線の鉄道建設工事で職に殉じられた二十余名の方の慰霊碑であります。
中央線の名古屋多治見間は明治二十九年十一月着工し明治三十三年七月二十五日に開通しましたが、その鉄道建設工事の中でも
高蔵寺多治見間は、庄内川に沿い山裾を、十四カ所のトンネルで結ぶ厳しい路線で、当時としては大変な難工事でありました。
僅か十キロ余の区間でしたが、落盤事故や土砂崩落で二十余名の方々が尊い命を捧げられました。
その難工事の状況を目のあたりにした地元の有志の方々相謀(あいはか)り、この殉職者の慰霊碑を玉野町地内の太平寺境内に建て
「死有餘栄」という題額のこの碑文を彫り、その霊を慰め、その労苦を顕彰したものであります。
中央線開通百周年にあたり、太平寺境内から工事現場に近い中央線の旧第一、第二トンネルの間のこの地に移設したものであります。
平成十二年十月二十六日
慰霊碑の文章を見てみましょう。格調高い漢文で書かれています。
上部の題名には 「死有餘栄」とあります。「死して限りない栄誉を残した」という意味のようです。
識者に現代文に翻訳(?)していただきました。その全文をどうぞ。〔碑の漢文を見てみたい方は、慰霊碑の画像をクリックしてみてください。
漢文が判読できる程度に拡大表示できます〕
『死後、限りない栄誉を残した』
前妙心現注定光十三・傳法沙門 誠岩大禅師が左の通り文をあらわし記す
人(生ある者)は、時尽くせば皆死んで行く
だが、世の中に役に立つことをして死んだ場合、その死には限りない栄誉を伴うものだ
況(ま)して、与えられた職務を全うするために命をささげた人であれば、尚更のことである
明治二十九年、国は中央鉄道工事を決定した
命をうけて、その職務に従事した者、数百人に及んだ
岩をくだき削り、けわしい土地を平らかにし、雑木を取り除き、線路を敷設して行った
風の日も雨の日も、寒い冬も炎暑の時も、朝から夜まで休息することはなかった
惨状は言葉にあらわすことはできない
或る者は、岩石により傷を負って命をなくし、又或る者は激務が元で病気になり、再起することがなかった このような犠牲者は二十人余りに及んだ それでも、この重圧を果たしたことに、涙を禁じ得ないものがある
いたましいことではあるが、職務を重んじ、仕事に殉じたことは、大いなる栄誉であることも確かなことなのだ
そこで、私共発起人で協議し占いを立てて、山と水の美しい所を選び、碑を立て、殉職者の功績を記してこの不朽の事績を伝えようとした
私は一連の事柄を見てきたため、この文をあらわすことを抑えることが出来なかったのだ
銘は次の通り刻されている
仕事を重んじて、自らの生命を顧みなかった 極寒と、厳しい暑さ それらを避けることも、恐れることもなかった
その功績は不滅であり、死して尚、限りない栄誉につつまれている
よい場所を選んで その事蹟を碑に刻す
山も水も美しいところだ ここに殉職者の霊をまつり、その事蹟を顕彰する 安らかに眠りたまえ
明治三十三年六月
高蔵杜(もり)多きところ 武藤瞬応 文を作り併せ書いた
この殉職者慰霊碑は、中央線名古屋多治見間が開業した明治33 (1900) 年に地元の太平寺という由緒ある寺院の境内に建てられたこと、前述の通りです(図の①)。 このお寺の土地が中央線工事の資材などの仮置き場として使われていた関係で慰霊碑を建立されたと言われています。その後の慰霊碑の変遷をまとめたのが上図です。
太平寺で百年間、地元有志や関係企業国鉄OBなどによりずっとお祀りされてきましたが、開通百年を期して平成12 (2000) 年に、トンネルの現場に近いところへ 移っていただこうという機運が高まり、千歳楼近くの東海自然歩道入口 (JR東海敷地) に移転されました。 これが1回目の移転です(図では②)。(ちなみに、この移転に関しては当NPOが結成される前であり、全く関与していません)。
爾来25年。このたび、関係者の高齢化などの事情で従前から碑の管理をしていたJR東海の関連会社CN建設(株)様から、愛岐トンネル群への移設ならびに
今後のお祀り(管理)依頼の提案をいただきました。当会が賛同し、慰霊碑にいちばん相応しい処、つまり愛岐トンネル群にお移りいただいくことになった次第です。
これが2度目の(図では③) の移転という訳です。
なんといってもここが安住の地。慰霊碑さん、どうぞ安心して余生を過ごしてください。私たちがお祀りします。
そして、愛岐トンネル群の行く末を見守ってください。・・・とお願いしたことでした。